流されてゆけ、どこまでも。

日常、趣味、創作。私が思ったこと、感じたこと。

正解、不正解。

子供の頃からよく目が大きいことを指摘されてきた。

指摘は指摘でも悪い方でだ。

目が合っただけで睨まれたと言われたことも多々あった。

私の人相が悪いのか、その時の運が悪かっただけなのか。

けれど何にせよ、そう言われる本人にしてみれば、なんとかしたいと思うものだ。

目が合っただけで睨まれたと言われたり、目が大きいから怖いなんて聞こえる距離で陰口を叩かれれると、人は傷つくんだ。この経験を通じて私はそれを理解した。

出来るだけ目尻が上がらないようにとか、暗い印象にはなるかもしれないが伏し目がちに少しでも目が小さく見えるように。人と話す時も出来るだけ目は合わせないように。

自然とそういう対応に自分から進んでいった。

けれど大人になってからは、そういう伏し目がちや大人しそうな装いは弱いやつの典型として見られる。

そんな様子で街を歩いていると、教養のない奴らに目をつけられては追いかけ回された。

道中すれ違うだけ、街中で偶然出会すだけの関係を私は気にも留めないように、彼らもまた私をどう扱おうが「大した関係じゃないから」と気にも留めない。

人を傷つけたいが代償は払いたくないと思う彼らにとって、大人しそうに歩く人間は都合がいい。

そこまでを経験して、今になって改めて考えてみる。

いったい何が正解だったのだろうかと。

相変わらず些細な個性を気にすることなく私として街を歩けば、目つきの怖い奴だと言われる。

けれど自分の安全を守ろうと考えるなら、弱々しく見えないような装いが必要だろう。

どうすればよかったのだろうかと途方に暮れる。

自分の身は自分で守らなければいけない。守れなかったとしても誰も責任は取れない、だから後悔がないように自分でやらなければいけない。

けれどそうやって自分の身を守るためと思っての行動を貫けば、怖い思いをしてほしくない人たちに怖い奴だという印象を与えてしまう。

私が感じているジレンマは伝わるだろうか。

臨機応変にとか柔軟な対応だなんて、言葉だけ見れば最もらしい。

あなたがどう思うかなんて、どれだけの教養を持っているかなんて、私には分からない。なのにどうしてそんな言葉達が正解だと言えるのか。

どうして人を傷つけなければいけない?

どうして人に傷つけられなければいけない?

私には分からない。

私に変われとか辞めろとか、盛んに言う君たちほど何も変わらない。

相変わらず気に入らないものを進んで指摘しては変われ変われと言ってばかりで、人を傷つけたり嫌な思いをさせる君の言動を君自身は顧みることすらしない。

これがこの世界の本当の姿なのだとしたら、私たちはこれをどう解決すればいいのだろうかと、私はまた考える。

今の私には分からない、けれど考えたい。

私は一体どうすればいいのだろうかと。

そしていつの日か、どうすべきなのかを理解したい。