流されてゆけ、どこまでも。

日常、趣味、創作。私が思ったこと、感じたこと。

唐突に振り返り。

今日はそれなりに表現できたと思う日もあれば、手応えイマイチだけどまぁいいかと思う日もある。

そんなものだろうと思っています。

文章で自分を表現するという切り口が特別向いてると思ってやってるわけでもないし、そこにはこだわりがない。

何かに際して感情を言語化しようとする場合どうしても詩的な印象の強い文体になるけれど、それだってそもそも自分に詩的な文章を書く才能があるとは思っていないから、極端な話、読み返した自分にさえ言いたいことが伝わるならいいかという塩梅でいつも書いている。

良くも悪くも私が書くものってそういうものですね。

私がその時を生きた記録のようなものなのだから、これくらいの生々しさは残ってもいいだろうと判断することもある。

どうしても人の目につくところなので、場合によっては表現を若干ろ過したり、伏せたり、すり替えるなどは多少あるが、好みが分かれるような一見綺麗とは言い難いものを隠したところで綺麗な人生を生きられるものでもないのだから、ある程度私なりに節度を持って判断しながらも、これくらいならいいかと思う生々しさは許容しています。

ここのサイトを利用してから一ヶ月以上が経つけれど、自分が書いたものを振り返ってみるとそんな印象を持つ。当然ながらこれまで通り、私は私だなと思う。

その日この場所で見える一面は私の数ある顔のうちの一つに過ぎないし、例えばそれは、プラモデルを組み立てることに喜ぶ姿を見ただけでは読書好きの性格まで知ることはないし、その逆も然り。

今日はどんな一面を開示するのだろうかというのは面白半分でいつも楽しみにしている。

全ての側面を合わせるとぐちゃぐちゃで大凡整合性のない私が出来上がるのだろうが、「人間」という生き物は本来そういうものではないだろうか。

おそらくはこれからも今日振り返って確認した要点については変わらないと思う。

書いたものの手応えとかクオリティなんて気にしないし、読み返した時の自分に言いたいことが伝わりそうならいいかというのが大体の基準で、1人の人間が書き残してるものだろうと思えるくらいの生々しさは、節度を持って判断しながらも、許容して残すようにしている。

これからも大体そんなものだろう。

弱さや愚かさが垣間見える瞬間だってあるかもしれないが、それらも全て私なのだ。

無意味で無価値な、愚かで切ない私の歴史を、密かに紡いでいきましょう。